2013年10月17日 野の花295号より

突き刺さったとげ

しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。
というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。
ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。
なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。     Ⅱコリント十二・九、十

 とげは痛いものです。痛みはなくなったかなとおもうと、またチクッとします。
抜かない限り痛みはなくなりません。
聖書はそれがどんなとげだったかはしるしていません。
しかしパウロはハッキリと『肉体に一つのとげ』と言っています。
このことばは、柵をつくる”棒(ぼう)杭(ぐい)”をあらわし、ときには”十字架”を意味しています。
たったひとつの小さなとげが、肉体を、心をかき回すのです。
人生を混乱に陥れるのは、ごくわずかなものです。
ある人はいいました。小さな一匹の虫が大木を倒すと。ほんとうに人間は一本の草に過ぎません。    与えられたとげ しかし、パウロはそれを「与えられた」という言葉を使っているのです。
神が私にくださったと言っているのです。
しかもパウロは『高ぶることのないように』といっています。
二度もこのことばをくりかえすのです。
すぐ前の箇所で、パラダイスに引き上げられた経験をした。
それだけではなく、学問においても、多くの教会を建てたという点でも知識と行動力のある宣教師でした。
 私たちは、少しのことをしただけでも、すぐに高ぶりやすいのに、パウロほどの人物なら高ぶっても少しも不思議はなかった。
しかし神さまは、「高ぶること」をおゆるしになりませんでした。
なぜなら人間の傲慢ほど、神さまがお嫌いになるものはないからです。
このことは人間はあまりわかっていません。
最初の人、アダムは、神さまが禁じられたにもかかわらず「食べれば神のようになる」と言う誘惑に引っかかってしまったのですから。

高ぶることのないために 私は障がいを持って生きて来ました。
けれども、私たちのだれが『高ぶることのないように』障がいが与えられたと受けとめているでしょうか。
むしろ、私たちは被害者だと思っています。わたしは何も障がいが、高慢の結果だとは言うつもりはありません。
しかし自分の障がいを、自分の傲慢が打ち砕かれるためだと受けとめない限り、パウロの言っていることは理解できないでありましょう。
すべての人間は、障がいを持たない人でも、何らかの神の恵みを受け入れようとしないものを抱きながら生きています。
この考えは、障がい者とその関係者には抵抗があるでしょう。
しかし障がい者は単に障がい者ではない、障がい者も人間であることを認めるならばこの主張は過激ではないはずです。
何よりも、パウロ自身これを『私を打つための、サタンの使いです』と言っているのですから。
しかし、パウロがはじめから素直に受け入れたわけでありません。
彼は正直に、これを私から取り去って下さるように願ったと記しています。
『三度も主に願いました』。
これは三回ではなく、ずっと長いことという意味が含まれています。
しかし主の答は、正反対でした。
『わたしの恵みはあなたに対して十分である』。
取り去ることを願っているあなたに対して、強調されている。
神の恵みを認めている人でも、これが”自分”に対してとなると、後じさりしてしまう。
けれども自分に対する神の恵みは十分だと受け入れてはじめて、私たちは自由に喜びと感謝をもって生きることができるのではないでしょうか。
納得できますか それには納得できる説明をつけてくださっています。
『というのは、わたしの力(ダイナマイト)は、弱さのうちに完全に現れるからである』。
これなら納得できます。
パウロが神の力と言う時、渓谷や山を破壊してダムやトンネルをつくるダイナマイトを意味しています。ですから『私は福音を恥とは思いません。
福音は、・・・信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です ローマ 一・十六』と申しました。
神さまは、人間を弱さのまま放って置かれない。
弱さにダイナマイトを仕掛ける。
人間の弱さはそのままでは何の役にも立たないが、そこにダイナマイトが仕掛けられると、予想外の働きができると言っているのです。
神さまの救いに無関心であるいは断りつづけていた人が、主イエス・キリストを信じる生涯に変わるのは、まさに神さまが私たちの心を爆破し、新しい心を植えつけて下さったということができるでありましょうか。
パウロはさらに、人間の弱さと強さを人間のレベルにとどめるのではなく、キリストの強さと弱さとに結びつけています。
『確かに、(キリストは)弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力のゆえに生きておられます。
私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対する神の力のゆえに、キリストとともに生きているのですーⅡコリント十三・四』と言うのです。
確かにこれは正しい聖書の神学ではありますが、机上の空論ではありません。
パウロ自身の中に、深く突き刺さった肉体のとげを通して、苦しみをなめ尽くした者の主張であり、救いのおとずれなのです。
大草原の小さな家 このテレビドラマに出て来るインガルス家の主人公ローラには、姉のメアリーがいました。
メアリーは高熱におかされ、失明してしまいました。
美人で自信家だったメアリーは、失意のどん底に突き落とされます。
目が見えなくなったことをどうしても認めることができません。
そんなとき、父親のチャールズは彼女に「”わたしは目が見えない。目が見えない”と大声で言いなさい」と言うのです。
メアリーはなかなか言うことができませんが、ついに泣きじゃくりながらそれを声にします。
 父親は「よく言った。よく言った」と彼女を抱きしめます。
不思議に、目が見えないと自分の弱さを認めた時から、メアリーは落ち着きを取り戻し、その弱さは弱さでなくなり、のちに盲学校の教師になって活躍するための財産となりました。
パウロの言った『私が弱い時にこそ、強いからです』は、決して気休めでもなければ、強がりでもないのです。

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