2021年5月29日 メッセージ【死のとげ 肉体のとげ】

死のとげ 肉体のとげ Ⅰコリ15章
15:55 「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。」
15:56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。

Ⅱコリ12章
12:7 その啓示のすばらしさのため高慢にならないように、私は肉体に一つのとげを与えられました。
それは私が高慢にならないように、私を打つためのサタンの使いです。
12:8 この使いについて、私から去らせてくださるようにと、私は三度、主に願いました。
12:9 しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。
わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。
ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
12:10 ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。
というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。
 「とげ」は抜かねばなりません。わたしも「とげ」に刺されたことがあります。
「とげ」はずるがしこい奴で、抜けたとおもったら、チクッと刺すのです。
パウロという宣教師は、二つのとげについて語っています。
共通点もありますが、違う点もあります。
『肉体のとげ』はパウロ個人のとげですが、『死のとげ』は全人類共通の痛みであります。
もっとも『肉体のとげ』は個人的なものであっても、パウロの体験を通して同じ弱さを抱える者に多くの励ましと挑戦を与えてきたことは否定できません。

死の歴史
 フランスの歴史家P・アリエスが死の歴史を考察しています。
人々は中世中頃までは、「飼い慣らされた死」と呼んでいますが、生と死の断絶は今日ほど深刻ではなく、近代・現代になると「転倒された死」として「死」は隠され、それが逆に死への恐怖心が大きくなり、死の暴力性、つまり「野生の死」がすぐそこまで迫って来ているとアリエスは指摘しています。
 コロナ禍に生きる私たちは、感染者・死者の数が毎日報道され、隠されていた「死」が社会の前面に出て来た感じです。
文明社会の快適に慣れ切っている私たちの前にー十四、十五世紀の七五年間も黒死病(ペスト)が社会を覆い、死の舞踏の図像が描かれたようにー隠されていた「死」が躍り出て来ているように思われます。
このように「死」は「向こうに行ってらっしゃい」と追いやっても、つきまとってきます。

でも死のとげはぬかれた!
 キリスト教というと、その名の通り教えの宗教のように受け取られている向きもあります。
右の頬を打たれたら左の頬も差し出しなさい。
確かに聖書にはよい教えがいっぱい詰まっている宝の箱のようです。
しかし人生の現実を打ちのめすもの、それは『死』です。
ヨブはこの死を有無を言わせず、手当たり次第全人類をひとり残らず飲み込んで来た『恐怖の王18:14』と呼んでいます。
私たちは、この恐怖の王のもとに一生恐れおののいて奴隷のように生きるのです。
 あのイスラエルの民はほとんど同じ境遇の中で、うめきの叫びをあげたのでした。
この時モーセが現れたように、イエス・キリストが死より三日目によみがえり、この恐怖の王を滅ぼして下さったのです。
 『死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえの勝利はどこにあるのか』、絶対的な宣言です。
私たちは人類の初めから『死』を克服しようとあらゆる努力を重ねて来ました。
でもできなかった!これからもできない!
なぜでしょうか。『死のとげは罪であり、罪の力は律法です』、ここに解決の秘密があります。
罪というとげをぬかない限り、死という『恐怖の王』から解放されることは絶対に不可能です。
主イエス・キリストが私たちの罪の身代わりに十字架に死なれた理由が、ここにあります。
 この勝利宣言と、オランダの画家ブリューゲルの「死の勝利」を見比べてみますと興味深いものがあります。
十四世紀中頃ヨーロッパ全土に広がったペストの大流行は、人々の生死観に大きな影響を与えました。
この世の地位・武力・富もこの『恐怖の王』の前には意味をなさず、
「メメント・モリ(死を覚えよ)」が一つの警句として定着したのです。
主イエス・キリストは十字架にかかられたとき、あたりは暗やみに閉ざされましたが、この暗やみの中でこの『恐怖の王』と戦い抜いて勝利をして下さいました。その証拠に主イエス・キリストは死の三日目に復活されました。

でも肉体のとげは抜かれなかった
 パウロは、『肉体に一つのとげを与えられました』と告白しています。
その前に『第三の天に引き上げられた』経験を語っていますが、その啓示があまりにもすばらしかったために、高ぶることのないようにと注釈をつけています。
『高ぶることのないように』が二回も使われています。
パウロは大きな働きをしました。大きな働きをすると、人は高慢になりやすい。
そして高慢はその働きを破壊するのを、パウロは知っていたのです。
パウロは別の手紙で『私は使徒の中で最も小さな者であって・・・・・なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。
ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。
・・・・・私はほかの使徒たちよりも多く働きましたーⅠコリントⅠ5:10』と書いています。
多く働いたが、多くの成果を得たとは言わないのです。
彼ほど多くの成果を得た人はいませんのに、そう言わないところにパウロの性格を見ることができます。
 この肉体のとげは、「肉体に刺さり込んだとげ」の意味があります。
激しい肉体的苦痛をともなう十字架を指します。
中世では、パウロの肉体的欲望などと解釈するふざけた人もいましたが、現代では文字通りの意味として受け取られています。
それにしても私が驚かされるのは、神さまは『死のとげ』は抜かれたが、『肉体のとげ』を抜かれませんでした。
どうしてだろうと悩みます。
悩んでいる内に、人はみな「強さ」にあこがれますが 神さまは逆に「弱さ」を通してご自分の働く余地を残して置くために、抜かれなかったのではなかろうかと私流に思うのです。
つまり、肉体のとげの痛みを負いつつ、『死のとげを抜かれた方』のために戦いながら生きた人物がパウロだったのではないかと。
天国にたどり着いた時、直接聞いて見たいと思っているのですが。
皆さんはどう思われますか。

 

 

 
今年大統領に就任したバイデン氏は、「今は、闇だが、やがて光は来る」と演説の中で語りました。信頼のできる政治家だなと思いました。
 わたしは二十二歳の時、母を亡くしました。これからどうやって生きて行けばいいのか、悩みに悩みました。
そしてある日、かたわらにあった睡眠薬をがぶ飲みしました。気づいた時は、病室にいました。
その時、同じ障がいのある牧師が見舞いに来て、次の聖書の言葉を読み祈って下さいました。
Ⅰコリ10章
10:13 あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。
神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。
むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。
 この言葉は、わたしの八十二歳の生涯を支える杖となりました。
繰り返しの試練の中に、『神の真実』が輝いて見えたからです。
 しばらくして、日本人の宣教師が訪ねて来ました。
母のまだ生きていた頃、悩みを書いて近くの教会に出した一枚のハガキをもって。
何かの書類の中にまぎれこんでいたと思われます。『神のなさることは時にかなって美しい』と言う言葉通りです。
宣教師はたびたび訪ねて来て、主イエス・キリストをあなたの『救い主』と信ずれば新しく生まれ変わることができます。
ただし主イエス・キリストがあなたのために、何をして下さったかを知る必要があります。
彼は、あなたの罪の身代わりになって、ご自身なにひとつ悪いことはなさらないのに、あのむごい十字架におかかりになったのです。
しかも、神さまはあなたの罪が確実に取り除かれ赦されたということを明らかになさるために、主イエス・キリストを死より復活させられたのです。
あなたは今障がい者として悩んでいるが、障がい者として生きる道があります。
神さまがお出来になります、とお話下さいました。
振り返って見ますと、障がい者として生きる道、その通りになりました。
 イエス様はあるとき、評判のよくない女性に『あなたの信仰があなたを救ったのですールカ七・五十』と申されました。
評判のよくないから、こう言われたのではありません。改心したからこう励まされたのです。
『救う』は「いやす」とか「完全にする」など幅広い意味があります。
わたしの姪の子どもは医者をしていますが、家族に事故があり、電話で報告があった時「またイエス様から愛されちゃった」と言うことばを聞きました。
不慮と愛されるとは、どう言う関係なんだろうと誤解されやすいですが、聖書のこの女性を思い起こした次第です。
 宗教改革者のマルチン・ルッターは、私たちの身近な出来事を通して次のように教えました。
ーーそれはちょうど、病んでいる人が、医者の完全によくなると言う約束を信じるようなものだ。
・・・・・さて、この病人は、今健康なのだろうか。実際、彼は病んでおり、同時に健康でもある。現実には病んでいる。しかし、彼は、医者の確かなやくそくのゆえに健康なのである。
彼は、医者を信じているし、また医者も彼をすでにいやされたと見ているのであるーーと。
 ルターは十六世紀の人ですが、そのころは今よりも病院の比喩は身近でなかった医者と患者との関係を通して、聖書の救いの意味を明らかにしているのはさすがです。
アウグスティヌスは、教会を病院にたとえました。病院には病気になったら行くところです。
ですが今の教会はどうでしょうか。病人を歓迎するでしょうか。
わたしが障がい者だからこう言うのではありません。教会を批判するつもりもありません。
教会は病院であると主張した大先輩の声を振り返って見たいのです。
これらの考え方は、何もとっぴなものではなく、イエス様のことばを受け継いでいると言えましょう。
彼はこうおっしゃいました。
『医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人ではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためですーマタイ五・三十一、二』と。
この時イエス様のまわりには、にせ健康者がとぐろを巻いていたのです。
コロナ禍の今ほど、医者は毎日のように報道にあらわれます。
以前は病院に行かなければ接することもできなかった医者がです。
今こそ、身も魂に触れて下さる偉大な医者のもとに馳せ参じたいものであります。
 
 
 
ヨブの身に何が
 旧約聖書に「ヨブ記」があること自体、神さまの偉大な配慮だとわたしは思っています。
ヨブは『神を恐れて、悪から遠ざかって』いました。
そして『東の人々の中で一番の有力者』と言われています。
ここに悲劇が始まる原因があったのです。場面は、地から天に変わります。
 ある日、神の前で御前会議が開かれました。
神はヨブの人格と信仰をほめられました。
集まった一人にサタンという者がいましたが、「ヨブの信仰には裏がある」と言い放ちました。
ヨブは財産が神さまに守られているから、『それを打ってごらんなさい。彼の本心が分かりますよ』。
神さまはヨブを信頼していましたから、しばらくして財産は全滅、十人の子どもは大嵐で亡くなったという知らせが届きました。
普通ならば「神も仏もあるものか」と神をのろうでありましょう。
サタンの言う通りになりました。しかしヨブはそうしませんでした。
『私は裸で母の胎から出て来た。【主】は与え、【主】は取られる。【主】の御名はほむべきかな』。
そして『神に対して愚痴』をこぼすようなことはしませんでした。
 またしても神はヨブをおほめになりました。
サタンは業を煮やして、ヨブのからだを打てと提案します。
ヨブは悪性の腫物で、全身を土のかけらで引っ掻く程のかゆみに悩まされることになりました。
妻のひとこと。『神を呪って死になさい』。
言ってはならない言葉です。
現代もSNSを通してこの言ってはならない言葉が飛び交っているではありませんか。
 次に、三人の友人が、慰めようと遠方からやって来ました。
友人たちは一週間も、何も話しかけずにヨブのそばにいました。
その痛みが大きいのを見て、慰めのことばも見つからなかったにちがいありません。
しかし慰めに来た友人がヨブの心をズタズタに引き裂くことになるのです。
それで私たちがこの偉大な書にふれる幸いにあずかれるのです。
 しかしついにヨブは口を開き、自分の生まれた日をのろうのです。
友人たちの長い長い論争が始まります。
その主張は複雑ですが一貫しているのは「因果応報」、ヨブが何か悪いことをしたから、その報いを受けているのだと言う思想です。

路傍の人に何が
 この思想は新約聖書にも出て来ます。
イエスと弟子たちが一人の視力障がい者を見かけます。
弟子たちはイエスにたずねます。
『この人が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか』。
イエスの答はそれを全面的に否定して、『神のわざがこの人に現れるためであるーヨハネ九・三』と言われている。
多くの人が待ち望んだ答です。
ここで注意したいことは、この人本人から出た疑問ではないことです。
もちろん生まれついてからですから、何度も疑問を繰り返したと思われます。
しかしここでは、この疑問は本人の口からではなく、第三者からでした。
 確かにヨブは自分の身に振りかかった災難に愚痴一つこぼしませんでした。
妻のひとことにも、『私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいも受けるべきではないか』と、ヨブはたしなめています。
幸いを受けるのは当然という人間のおごりが、ここにあります。
ヨブ記が語ってくれる、幸福感、災い感がここにあると言えましょう。

ベテスダの人に何が
もうひとりの人を紹介しましょう。
ベテスダの池のほとりにいた三十八年間病気にかかっていた男です。
この池の水が動いた時、真っ先に入った者はどんな病気でも直るときいて、彼は来ました。
イエスは彼に『よくなりたいか』と問いかけられました。
病人はこのように答えました。
『(池の中に)、行きかけると、もう他の人が先に降りていくのです』。
答えになっていない答です。
よくなりたいという思いも、四十年近くの歳月を経るとどこかへ消えてしまったようです。
 イエスは「おお!哀れな人よ」とは言われませんでした。
『起きて、床を取り上げて歩きなさい!』、待ったなしです。
力強い声がむしばんだ三十八年間の生涯をふるい立たせたのです。
ここでもこの病人は、自分の苦難の意味を問うていません。

主なる神に何が
 友人たちは退場して、今度は主なる神が登場して来られます。
神はこう申されます。
『さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。あなたはわたしのさばきを無効にするつもりか。自分を義とするため、わたしを不義と定めるのかーヨブ記四十・七、八』。
苦難にあった人は得てして弱虫です。
ヨブは友人の間違いをたたいているうちに、自分は正しいんだという自己義に陥っていたのです。自己義と隣り合わせは自己憐憫です。

 あのベテスダの男もくだくだ言いましたが、イエスはひとこと『床を取り上げて、歩め』とおっしゃいました。
ヨブは友人と論争しているうちに神を責めていました。
神はそれを見抜いて、何だ、そのへっぴり腰は、男らしくせよ、今度はわたしがたずねる。
答えよと言われるのです。
私たちは何かあると、神に問いかけますが、ある場合は「なぜですか」と食ってかかることがあります。
そんな時、神は必ず「わたしに答えられるか。答えて見よ」と挑戦されます。
そして強い口調で「あのカルバリの丘に立っている十字架を見なさい。十字架の光に照らされる時、苦難の意味が分かって来る」と雷鳴に似た激しい声が世界中を揺るがし駆け巡るのです。

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