2021年1月30日 野の花332号メッセージ
【メッセージ】
あなたは苦難の意味を問えるか
【主】は嵐の中からヨブに答えられた。
さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。
あなたはわたしのさばきを無効にするつもりか。自分を義とするため、わたしを不義に定めるのか。 ヨブ記四十・六ー八
聖書に登場する三人の人物を通して、考えて見たいと思います。
ヨブの身に何が
旧約聖書に「ヨブ記」があること自体、神さまの偉大な配慮だとわたしは思っています。
ヨブは『神を恐れて、悪から遠ざかって』いました。そして『東の人々の中で一番の有力者』と言われています。
ここに悲劇が始まる原因があったのです。
場面は、地から天に変わります。
ある日、神の前で御前会議が開かれました。
神はヨブの人格と信仰をほめられました。
集まった一人にサタンという者がいましたが、「ヨブの信仰には裏がある」と言い放ちました。
ヨブは財産が神さまに守られているから、『それを打ってごらんなさい。
彼の本心が分かりますよ』。
神さまはヨブを信頼していましたから、しばらくして財産は全滅、十人の子どもは大嵐で亡くなったという知らせが届きました。
普通ならば「神も仏もあるものか」と神をのろうでありましょう。サタンの言う通りになりました。
しかしヨブはそうしませんでした。
『私は裸で母の胎から出て来た。【主】は与え、【主】は取られる。【主】の御名はほむべきかな』。
そして『神に対して愚痴』をこぼすようなことはしませんでした。
またしても神はヨブをおほめになりました。
サタンは業を煮やして、ヨブのからだを打てと提案します。
ヨブは悪性の腫物で、全身を土のかけらで引っ掻く程のかゆみに悩まされることになりました。
妻のひとこと。『神を呪って死になさい』。
言ってはならない言葉です。
現代もSNSを通してこの言ってはならない言葉が飛び交っているではありませんか。
次に、三人の友人が、慰めようと遠方からやって来ました。
友人たちは一週間も、何も話しかけずにヨブのそばにいました。
その痛みが大きいのを見て、慰めのことばも見つからなかったにちがいありません。
しかし慰めに来た友人がヨブの心をズタズタに引き裂くことになるのです。
それで私たちがこの偉大な書にふれる幸いにあずかれるのです。
しかしついにヨブは口を開き、自分の生まれた日をのろうのです。
友人たちの長い長い論争が始まります。
その主張は複雑ですが一貫しているのは「因果応報」、ヨブが何か悪いことをしたから、その報いを受けているのだと言う思想です。
路傍の人に何が
この思想は新約聖書にも出て来ます。
イエスと弟子たちが一人の視力障がい者を見かけます。
弟子たちはイエスにたずねます。
『この人が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか』。
イエスの答はそれを全面的に否定して、『神のわざがこの人に現れるためであるーヨハネ九・三』と言われている。
多くの人が待ち望んだ答です。
ここで注意したいことは、この人本人から出た疑問ではないことです。
もちろん生まれついてからですから、何度も疑問を繰り返したと思われます。
しかしここでは、この疑問は本人の口からではなく、第三者からでした。
確かにヨブは自分の身に振りかかった災難に愚痴一つこぼしませんでした。
妻のひとことにも、『私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいも受けるべきではないか』と、ヨブはたしなめています。
幸いを受けるのは当然という人間のおごりが、ここにあります。
ヨブ記が語ってくれる、幸福感、災い感がここにあると言えましょう。
ベテスダの人に何が
もうひとりの人を紹介しましょう。
ベテスダの池のほとりにいた三十八年間病気にかかっていた男です。
この池の水が動いた時、真っ先に入った者はどんな病気でも直るときいて、彼は来ました。
イエスは彼に『よくなりたいか』と問いかけられました。
病人はこのように答えました。『(池の中に)、行きかけると、もう他の人が先に降りていくのです』。
答えになっていない答です。
よくなりたいという思いも、四十年近くの歳月を経るとどこかへ消えてしまったようです。
イエスは「おお!哀れな人よ」とは言われませんでした。
『起きて、床を取り上げて歩きなさい!』、待ったなしです。
力強い声がむしばんだ三十八年間の生涯をふるい立たせたのです。
ここでもこの病人は、自分の苦難の意味を問うていません。
主なる神に何が
友人たちは退場して、今度は主なる神が登場して来られます。
神はこう申されます。『さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。
わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。
あなたはわたしのさばきを無効にするつもりか。自分を義とするため、わたしを不義と定めるのかーヨブ記四十・七、八』。
苦難にあった人は得てして弱虫です。
ヨブは友人の間違いをたたいているうちに、自分は正しいんだという自己義に陥っていたのです。自己義と隣り合わせは自己憐憫です。
あのベテスダの男もくだくだ言いましたが、イエスはひとこと『床を取り上げて、歩め』とおっしゃいました。
ヨブは友人と論争しているうちに神を責めていました。
神はそれを見抜いて、何だ、そのへっぴり腰は、男らしくせよ、今度はわたしがたずねる。
答えよと言われるのです。
私たちは何かあると、神に問いかけますが、ある場合は「なぜですか」と食ってかかることがあります。
そんな時、神は必ず「わたしに答えられるか。答えて見よ」と挑戦されます。
そして強い口調で「あのカルバリの丘に立っている十字架を見なさい。
十字架の光に照らされる時、苦難の意味が分かって来る」と雷鳴に似た激しい声が世界中を揺るがし駆け巡るのです。
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