2020年11月8日 今月のメッセージ

わたしを愛しますか

イエスは三度目もペテロに、「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。
ペテロは、イエスが三度目も「あなたはわたしを愛していますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ、あなたはすべてをご存じです。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。」
イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。

ヨハネ福音書二十一・十七。

「愛の訓練」
イエスとペテロとの特別レッスンが始まります。ペテロの否認を回復するためです。
ペテロだけが特別扱いされたのではありません。
他の弟子達もイエスから逃げましたので、イエスのお取り扱いを見習わなければなりません。
その一点は『わたしを愛しますか』、しかも『この人達以上に』です。

教会以外に「愛の訓練」を受ける所があるでしょうか。
訓練という言葉は多少強制という意味があります。
なぜなら私たち人間は人を愛することを知らないからです。

お大切に
鈴木範久の著作に「聖書翻訳の歴史」と言う書物がありますが、もともと日本語には聖書の告げる「神」とか「愛」にふさわしい言葉がなかったそうです。
鈴木氏は、聖書翻訳の初期訳は「愛」を「お大切に」と訳しました。
そして「ここに隣人を大切にする精神」があると言っています。
私たちは日常の挨拶の中で「お大事に」とか「お大切に」と言うではありませんか。
日本人でありながら、相手を大切する心が欠けてしまっているように思われるのは私だけでしょうか。
主イエス・キリストは、このわたしを「大切な存在」として思って下さり、十字架に命をささげられました。
ヨハネはこのことを『人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていませんーヨハネ福音書15:13』と言う表現で表しました。
だれも持っていません。この『愛』を。

ずっと以前ホームに転落した女性を助けるために、近づいて来る電車にもかかわらず、線路に飛び込んだ青年がいたことを思い出します。
三浦綾子にも「塩狩峠」と言う作品があります。
峠にさしかかった列車が止まらなくなり、一人の青年が下敷きになったという実話に基づく小説でした。

あなたがご存じです
イエスの問いかけに、ペテロは「愛します」と胸を張れませんでした。
『あなたがご存じです』と言うしかなかった。
私たちの「愛します」は「愛しているつもり」にすぎない。
その確実性は相手にあるのです。
「愛します」と言っても、相手の心に届かない場合があります。

イエスが弟子たちの足を洗われたとき、十字架にかかる時が近づいたので『その愛を残ることなく(最後まで示された)ヨハネ13:1』。
『極み』まで私たちはこの愛を受けたのです。
グレゴリオ聖歌の映像を見ていたとき、「我らはキリストの愛によって集められ」と言う字幕が流れていました。
何かの利益のためではなく、キリストの愛によって集められた団体、これこそ教会の真の姿だと思わせられました。

心が痛むよう
ペテロは主イエスから『私を愛するか』を三度も繰り返されて『心を痛めた』が、主を知らないと三度否認したことは、それ以上に主は『心を痛めた』に違いありません。
否認のたびにむちで打たれるような痛みを覚えたにちがいない。

私たちも日常レベルでも似たような経験をしています。
自分が受けた心の傷に対しては過敏なのに、相手に与えた傷にはきわめてにぶいのではないでしょうか。
時として、相手をとことん痛めつけるよりも、自分を痛めつけることは大切でありましょう。
その瞬間、私たちの痛みを担い、私たちの罪のために徹底的に痛めつけられた十字架の主イエス・キリストを見出すでしょう(イザヤ53:4,7)。

どのような死に方をしたら
ペテロは、どのような死に方をして、神の栄光を現わすかを教えられました。
不思議なことに、生き方ではなく、死に方によって私たちの人生は決まるのです。
『あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。
しかし年を取ると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行かれます』、鋭い対照ではありませんか。

まるで私たちが直面している「老齢者問題」ではありませんか。
しかしペテロの死に方が示されたのです。
手を十字架にくくりつけられ、行きたくない処刑場に連れて行かれるのです。
もちろん同種類の苦しみではありませんが、私たちは皆それに似た悲哀をなめているのではありませんか。
老化に伴う様々な課題を担っている者にとっては同種類かも知れません。
ただし老化の木苦しみをキリストに受け入れているかどうかにかかっているのですが。

誰しもこの悲哀を避けることはできません。
いや、私たちはこの嘆きで終わってはなりません。
死に方と、もっと言えばどのような老い方をすれば、『神の栄光を現わす』かを聖書から学んで行きたいものです。
『わたしを愛しますか』は、私たちの生き方、老い方、死に方に深くつながっていると申しても過言ではありません。

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