2013年11月22日 静風荘メッセージ

ふるさと学舎の一角に静風荘があり、広大な山を切り崩した中に、何棟もの建物があります。
月に二回、聖書集会があり、市原教会の渡部牧師が責任を持っておられます。
私たちは、美浜教会員の姉妹が月一回運転ご奉仕をくださっています。
ことしになって、二人ずつ市原教会への送迎も始めています。
市のリフトカーで野の花クリスマスに参加することも、楽しみの一つになっています。
お祈りください。 内藤俊宏

強くあれ、恐れるな イザヤ35
イザヤは、救い主が来ると、目の見えない人が見え、耳の聞こえない人は聞こえるようになる。
足がきかない人は鹿のように飛び跳ねることができると預言した。
イエス様が「あなたが救い主ですか」と聞かれた時、目の見えない人が見えるようになり、足の利かない人が飛び跳ねている、とお答えになった。
 わたしの驚くのは、イエス様が救い主だという証拠は、世の中では特別な人間、弱くて何もできない人間だと否定的に見られている人間が回復する点に置いていることである。
イザヤとイエスとの間には七百年ものが開きがある。

イザヤは、救い主がくると、イスラエルの敵をやっつける復讐の主として現れるという。
救い主がおいでになると、癒やしと慰めがあると言いながら、まだ敵に対する復讐が捨て切れなかった。
しかしイエスは救い主として、この世では最も弱いと低く評価される人々を癒やし回復させられたばかりでなく、敵に対しても復讐してはならないといわれ、十字架の上で『彼らをおゆるしください』と祈られた。
救い主イエスは、慰めと愛を私たちに示されたが、それは"赦ししかない"それを十字架の上で身をもって教えてくださった。
家畜小屋の幼子、外国人の知恵者や貧しい羊飼いに囲まれた赤ちゃん。

なぜ幼子なのか。なぜ家畜小屋なのか。なぜきらびやかな御殿ではなかったのか。
御殿だったら、厳重な守りがあり、限られた人々しか近づくことができなかっただろう。

人間だったら、近づきやすい人と、そうでない人がいる。でも赤ちゃんだったら、近づきにくい赤ちゃんがいるだろうか。
人間も大人になると、見栄や威張り散らすことがある。
赤ちゃんは、誰をも寄せつける。赤ちゃんは、皆に可愛がられる。
だが、排泄も食事も、誰かの世話にならなければ、一瞬も生きて行くことはできない。
神さまは、私たちのために、もっとも弱い存在として"救い主"を下さった。
 クリスマスを待つことをアドベントという。救い主がおいでなるのを『待つ』、心の準備をしてお待ち申し上げる。
アドベントのもう一つの意味は、アドベンチャー(冒険)が意味がある。
イエスがこの世に来られたのは、冒険してくださったから。貧しい家畜小屋に生まれ、人々を癒やし愛と慰めを与えた反面、憎しみの渦巻く中でついに十字架にかけられてしまった"救い主"。
私たちは、救い主を待つ同時にどんなイエス様のために冒険をしているだろうか。
クリスマスは楽しい時であってもいい。
だが今年のクリスマスこそ、この二つを毎日の生活の中で実現しながら、迎えたい。

 

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